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| Whole Lot of Shakin' Going On |
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ジェリー・リー・ルイス |
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ボ・ディドリーの〈モナ〉はトップ40入りを果たせなかった(ボ・ディドリーのレコードでトップ40入りしたのは、1959年の語りを使ったノヴェルティ作品〈セイ・マン〉だけだ)。それとは対照的に、ジェリー・リー・ルイスのおなじように革新的でおなじようにひとつの権威として充分な独自性を持つ〈ホール・ロット.オヴ・シェイキン・ゴ-イング・オン〉は、1957年夏、ポップ・チャートの第3位まで上昇した(R&Bとカントリーの分野では第一位の売りあげを示した)。もろちん、白い肌を持っていることが有利に働いたのだ。 しかし、〈ホール・ロット・オヴ・シェイキン……〉には、大ヒットをする特別な要素があった。どうしてなのかはわからないが----きっと強烈なカリスマによるのだろうー、ジェリー・リーは抑制のない狂乱を安全だと思わせる形にして示すことに成功した。安全だったといっているのではない。ただ安全だと思わせたのだ。 この世を逸脱し、とんでもないところに踏みこむ危険なパフォーマンスというものが存在するとすれば、〈ホール・ロット・オヴ・シェイキン……〉は、その典型的な例だ。それなのに、この曲があまりに魅力的で感じがいいせいで、不安や危険を感じずにすむ(それでも最初は曲の出版を管理する組織、BMIから追放された)。魅力という力、法を重んじるふつうの市民の自己防衛心を油断させ、そのすきに奔放な熱狂を送りこむことができる魅力という力。〈ホール・ロット・オヴ・シェイキン……〉は、そういう力の証明だ。 「演技でやっているんじゃない」ジェリー・リーがそういうのを聞いても、聞く者はそれを信じない-----そしてそれがほんとうだとわかったときには、もう遅すぎる。リトル・リチャードとおなじようにジェリー・リー・ルイスはミュージシャンとして初期の時代に、このようにしてセックスと神を統合した。彼は自分に確信を持っていたし、神の力を信じていたし、性的な魅力や性的表現が聖なる力を持つことを確信していた-----しかし、その三種のものがどのような形でひとつになるのかは知らなかった。 実生活上では、彼はそれをひとつに統合できず矛盾した思いを抱え、自分を救いようのない(いけないことだと思うのに、それを改めることができない)罪人としかとらえることができなかった。しかし音楽をつくるときや聴衆の前で演奏するときには、この三つがまるで天の定めであるかのようにひとつになった。 〈ホール・ロット・オヴ・シェイキン-----〉歌というより大騒ぎの。パーティー、楽器(+ヴォーカル)の妙技の大披露といったほうがふさわしい------は、アメリカのさまざまな民衆音楽と重なりあう部分が多いという意味で、また聞く者を何でもない状態から、からだを揺らす状態に変えることができるという意味で、これ以上は望めないほどみごとなロックンロール・レコードだ。 同時にこのレコードは、中国の古代の知恵の書、『易経』にあるぼくの好きなことばをすばらしい形で示すものでもある。夏の初めに雷----電気的活力---がふたたび大地から立ちのぼり、最初の雷嵐が自然を新しくするとき、長く保たれた緊張は解かれる。歓喜と安穏が感じられるようになる。音楽もまた、心のうちにある緊張をやわらげ、奥に隠された感情を縛る輪を解く力を持つ。歌の爆発、踊り、リズムにあわせたからだの動きのなかに、熱い心がおのずから現われる。眼には見えない音のすばらしい働き、すべての心を動かしてひとつにまとめる働きは、太古から人類を魅了してきた。 ああ、こうした隠された感情!みんなとおなじようにジェリー・リーはそれを知っていた。だから彼は自分を縛る輪を解いた。ぼくたちにかわってそれをやった。「演技でやっているんじゃない」----預言者のいいそうなことばだ。この最高の真実(つまり、このパフォーマンスの最初から最後までの全体)は、自然発生的に起きたジェリー・リーというひとりの人間の個性の発散という形で存在している。彼の個性が、ぼくたちの集団的欲求を感じとり、それを表現し、それを赦済して光をあてたのだ。 鮮やかなピアノ、鮮やかなギター、ぞくぞくさせる鮮やかな笑い声。鮮やかな神秘。たくさんのものがシェイクしている。 |
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ポール・ウィリアムズ『ロックンロール・シングル・ベスト100』より |