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以下の文章は「パンク」つまり1970年代後半世界を凄まじいまでの衝撃を与えたPUNK ROCKについてスティーヴン・デイリー著「オルタ・カルチャー」に記載されていたものだ。
野火のように拡がるメディア・ウィルスの時代において、最も頑なまでに残っている現象のひとつは、実は世界中を席巻するのにわずか数時間ではなく何年もかかっていた。本来は刑務所内のホモセクシャルを意味する言葉だった「パンク」は、ビートルズ像のイギリス音楽からの影響と初期サイケで実験をしていた、60年代半ばの下劣なガレージ・バンドの世代のレッテルとして、若者カルチャーの意味をはらむようになっていた。
これらの恵まれない「パンク・ロック」のグループは、荒々しく切り開かれた一連の珠玉のポップス作品を生み出し、後にロック・ジャーナリストのレニー・ケイによって1972年の影響力の大きいアルバム「ナゲッツ」にまとめられた。
パティ・スミスのギタリストとして活躍していたケイはパンクのウィルスを世界に向かって解き放つことに大きな役割を果たした。スミスはニューヨークのダウンタウンにあったクラブで。1974年から75年にかけてはイーグルスやピンクフロイドなどといったバンドの「恐竜のような」時代遅れのロックによる支配に対して多面的な攻撃を行ったCDGDsに君臨していた女王だった。このクラブは新しいパンク・ロックの姿を定義するバンドたちを抱えていた。パティ・スミスやテレビジョン(ロマンチックな詩人たち)、ブロンディにラモーンズ、そしてトーキング・へッズ(ミニマリストなプレッピーたち)などにたったひとつ共通する意識は、当時のロック界においては時代遅れになり始めていた、短い曲、高度にコンセプト性の高い作品、そして都会的、かつ現代的なテーマにとらわれたスタイルへの固執という価値観を拒否することだった。1975年のヴィレッジ・ボイス紙の記事で評論家のジェイムズ・ウォルコットはそれを「パブリック・アクセス・ロック」、つまり大衆が受け入れやすいロックと呼んだ。このアメリカのパンクスの世代はいつまでもゴールデンタイムには役不足と思われていたのだ。
今日パンクの伝統的スタイルとして認知されていた破れた服と尖った髪の毛、そして安全ピンを最初に身につけたのは元テレビジョンのべーシスト、リチャード・へルだったと、伝統的に伝えられている。ヘルのスタイルはロンドンで活動していたファッション商であり、ポップを売りものにしていたマルコム・マクラーレン(一時は、グラムに打撃を与えられた先駆的存在のニューヨーク・ドールズをてがけていた)によって大西洋を渡り、彼はちょうどそのとき売り出そうとしていたセックス・ピストルズにそれを応用した。
イギリスでパンクのウィルスは山火事のごとく広まった。象徴的な曲「アナーキー・イン・ザ・UK」と1976年後半にセックス・ピストルズによる下劣極まりない露出によって国中の大人たちが彼等に反発し、その結果、その下の世代が彼等の援護に回ることになった。アメリカにおける同輩とは違い、クラッシュやバズコックス、スリッツ、ワイヤーそしてスージー・アンド・ザ・バンシーズ(その他大勢流行に乗っただけのバンドもいた)などといったUK初期のバンドたちは現代的なアンチロック的な立場のまわりに熱心に築き上げられた元年的なレトリックがあった。
イギリスのパンク・バンドたちは元々はラモーンズが1976年に発表したデビューアルバムをそのミニマリトス的なサウンドの宣言書として取り上げていたが、彼等はそのうち、音楽や性の区別、ファッション、そして政治などを実験的に取り扱う段階に突入していった。シュールレアリズムやダブ・レゲエ、そして状況主義などといった、外部からの浮き立つような影響に対して真剣に取り組み、ジャクソン・ポラック、ドビュッシー、そして反ナチ・コラージュ・アーティストのジョン・ハートフィールドなどの名前が頻繁にやりとりされた。
イギリスのパンクにおける政治的左翼主義の大部分は後ろめたい中産階級の美学生が気取っていたものだったが、このジャンルのもっとも賢い実践者たちがその他のメディアの領域からの影響へと移行していくうちに、この主義主張は実際の労働者階級のプロレタリアートの手に渡ることになった。結果は決してまともではなかった。シャム69やUKサブス、クラスやエクスプロイティドなどといったバンドの手によってパンクは芸術のかけらも感じられない、粗暴で人種排他的、さらにひどく進歩がない文化の形態となってしまった。
だが、こういったパンクのいくつかは一般的な人気も獲得していったし、80年代が幕を開けると、トレンドに敏感なニューヨーク以外でも様々なパンクのグループが息づいていたアメリカにおいても、影響力を及ぼすようになった。
パンクの分派はその他の都市においても根付いていった。タフで超男性的なそのシーンはスタイル的な発展はもちろんのこと、メディアからの注目とも無縁だった。ロス・アンジェルスのパンクの伝説は1978年にブラック・フラッグのメンバーであったグレッグ・ジンとチャック・ドウカスキーが旗揚げした55Tレーベルのもとで発展していった。バッド・リリジョンのギタリスト、ブレット・ガービイッツはエビタフを創り、実験的なベンチャー事業だったこのレーベルは90年代に入ると莫大な利益を生み出すようになる。ワシントンD.C.ではマイナー・スレット(後のフガージ)のイアン・マッケイがディスコード・レーベルでハードコア・シーン(とそのストレート・エッジの一派)を育み、ここからはユース・ブリゲード、バッド・ブレインズ、そしてSOAなどが育っていった。もっとも意外なパンクの根城は南カリフォルニア郊外の豪勢なオレンジ・カウンティーでサーファーとスケートパンクスからなる社会はスイタイデル・デンデンシーズ、エージェント・オレンジ。ソーシャル・ディストーション、そしてT.5.O.Lやアドレセンツなどといった60年代初期の一本気なバンドたちを支えていった。
80年代におけるオルタナティブ・カルチャーとしての「パンク」は滅多に話題に上らないまでも、確固たる純粋性の象徴であり、オルタナティブ系のバンドであったら自然にそこを目指す汚れなき理想となった。それは若者にとって単に共感を覚えるカルチャーのスタイルではなく、曖昧な速くうるさい激しい音響的な調和と、反商業的なスタンスとなっていったのである。(ファッションは基本的にネルシャツと破れたジーンズ、コンバットブーツであり、これは90年代に入るとグランジと呼ばれるようになる)
今ではハスカー・ドウ、ダイナソア・ジュニアやミート・パペッツなどといった尊敬を集める才能が集う55Tがかって創った伝説的なTシャツは「企業ロックは最低だぜと吐き捨てた」。55Tの同窓生、ソニック・ユースが1992年に発表したドキュメンタリー作品に「1991年 パンクがブレイクした年」という題名をつけたのも無理はない。
この「ブレイク」はソニック・ユースの前座をずっと務めていたニルヴァーナによって実現され、彼等はパンクの精神をヒットチャートのど真ん中へ持ち込んだ。セックスピストルズ同様、こたえられないポップな雰囲気のサビが華やかであると同時に滑稽にも思える身ぶりの才能をもったシンガーによって伝えられ、それは叩き付けるような激しいリズム・セクションによって後押しされているのだ。
オルタナティブ界がパンクの信条が勝利を収めたことに自己満足しているように映ったら、それは中身の薄いMTVによる影響が大きいという特徴的な10年間を生き延びることによって、自ら勝ち取った勝利だった。これに続いた現象は決して予測できたようなものではなかった。極端に文字通りにパンクを解釈した一連のバンドが登場、シアトルに陽が当たっていた頃には見過ごされていた都市部でかなりのカルト的人気を獲得した後にプラチナ級のアーティストへと育っていった。彼等の信条は至って単純だったかもしれないが、何百万人にとってそれは真実の響きを持っていたのである。この突撃を率いていたのはサンフランシスコのイースト・ベイ地区から出てきたグリーン・デイだった。この街に息づくパンクの伝統は70年代におけるアヴェンジャーズやデッド・ケネディーズから伝説的なバークリーのクラブ、924ギルマンノ1986年の再開までずっと続いていた。
1994年頃にはグリーン・デイはオレンジ・カウンティー出身で(エビタフ所属の)同じくらいパンキーな
オフスプリングと共にMTVのローテーションに組み込まれていた。後に続いていたのは、ベイエリアで活躍していたランシド(彼等のエビタフ所属だった)で、彼等には実際元UKサブズのメンバーが参加していた。
90年代半ばのパンクの再興はオリジナルの頃の馬鹿げた感覚は欠如していたかもしれないが、馬鹿馬鹿しいことはそれ以外でたっぷり存在していた。派手やかなファッション・デザイナーのジャンニ・ヴェルサーチの手による1993年のミラノ・コレクションでは1976年のロンドンに敬意を表し、破れた服と大きな安全ピンを目立つようにあしらっていた。その1年後MTVのダンスパーティー番組「ジ・グラインド」は「パンク」特番に、その枠を明け渡すことになり、すっかりその気になったティーンエージャーたちが新旧両方のパンクにあわせて跳び回っていた。同じく1995年7月発行のディティルズ誌ではランシドのティム・アームストロングが紫色のモヒカン刈りで表紙の中でせせら笑い、マルコム・マクラーレンが新しくでてきたパンクバンドを批評し、オフスプリングやラシンド、そしてペニーワイズなどといったバンドに呑気な好評を一様に与えた。
これらのアンサンブルは各々に粗っぽく切り出された(排他的ではあったが)珠玉のポップ作品を生み出し、これらはその他の主要な流行と同様、ロックビジネスにおいて受け入れられたのである。
1995年における主流はピンク・フロイドやイーグルス、そしてグレートフル・デッドなどといったスタジアム級のバンドであり、ガース・ブルックスやリバ・マッキンタイヤーなどの新世代のカントリー界のスーパースターたち、そして真剣で男臭いフーティー・アンド・ザ・ブロウフィッシユやデイヴ・マシューズ・バンドなどといった本物のバンドだった。パンクはついに、伝統さえあれば何でも受け入れてくれる社会において、その居場所を見つけたのである。(「オルタ・カルチャー」スティーヴン・デイリー)
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